いばらきの公共事業(歴史をたどる)

いばらきの公共事業 県土木部総括技監・部長編⑦

2024.04.06

いばらきの公共事業(歴史をたどる)

鹿島開発とワールドカップを支えた国道124号について

渡邊 一夫 氏
元県土木部長

横田 喜一郎 氏
元技監兼検査指導課長(当時:潮来土木事務所長)

鹿島コンビナートの大動脈へ活躍

 江戸時代、常陸国は水戸を中心に街道が整えられ、水戸街道、岩城相馬街道、棚倉街道、結城街道、飯沼街道などがあったそうです。飯沼街道は、水戸-鹿島-下総国飯沼村(銚子・飯沼観音)を結ぶ幹線道路で、水戸~鹿島までは「かしま道」と呼ばれる鹿島神宮参詣の道であり、神栖~銚子までは「てうし(ちょうし)道」と呼ばれる、当時の人々の信仰の道でもあったようです。この飯沼街道が、国道124号の原形だったのではないでしょうか。

老朽化の銚子大橋架替

  鹿島開発の主軸となったのが、国道124号です。国道124号は、千葉県銚子市の銚子大橋前交差点を起点とし、水戸駅前交差点に至る延長約100㎞の一般国道です。しかし、鹿嶋市から終点の水戸市までの区間は、国道51号との重複区間となっており、124号の実質延長は銚子市から鹿嶋市までの約35㎞です。
 県境に架かる銚子大橋は、日本道路公団の有料道路でしたが昭和49年に無料開放された、利根川河口部に架かる長大橋です。橋長1203・2m、幅員7mで、当時は国内最大級を誇ったそうです。
 現在の124号の主なルートは、昭和42年(1967年)に都市計画決定されました。鹿島開発区域内は、鹿島開発組合が一括して用地買収を進めたため、早期に供用され、同時期に供用された水郷有料道路(現在は無料)と共に、鹿島コンビナートの大動脈として活躍してきたのです。
 私は道路建設課時代以降、この路線にいろいろと関わってまいりました。特に思い出されるのは、利根かもめ大橋とワールドカップ関連についてです。
 銚子大橋の渋滞解消や、鹿行地域と千葉県東総地域の交通ネットワーク強化を目的に、上流8㎞地点に銚子新大橋有料道路(利根かもめ大橋)が計画されました。これは千葉県道路公社施工でしたが、途中で茨城県側にヒヌマイトトンボの生息が確認され、この対応に苦慮したのを懐かしく思い出されます。平成8年ごろの話です。
 この橋梁整備に合わせて、旧波崎町地内の4車線化事業が積極的に進められました。急ぎ供用させるため、何工区にも分けてもらい、同時に工事発注してもらったりしたので、潮来土木事務所の皆様、建設業界の皆様は大変ご苦労されたと思います。改めて感謝申し上げます。
 ベルコン通りとの交差部がいつも渋滞してしまうというので、何度も何度も現地に行き、交差点改良を行ったりもしました。
 次に、ワールドカップ関連についてです。平成8年(1996年)、2002年に開催されるワールドカップの会場の1つに、鹿島サッカースタジアムが選ばれたのです。これに対応するため、スタジアムも4万人強収容できるよう、急ピッチで改修が進められました。アクセス道路も早急に整備する必要が生じたのです。
 第一に、東京方面からの玄関口となる東関東自動車道潮来インターと、会場地をいかに結ぶかです。まず、国にお願いして国道51号の新神宮橋を含む鹿嶋バイパスの整備を急いでもらうようお願いしました。そしてインターと新神宮橋の間は、県が県道潮来佐原線のバイパスとして整備を急いだのです。同時に、県道大洋鹿島線、県道鹿島港線の整備も進めました。
 もちろん、国道124号の鹿嶋バイパス、鹿島神宮付近の2・2㎞も、事業を急ぎました。神宮の森に近接していたので、慎重に、かつ急ピッチで事業が進められました。
 平成13年(2001年)に1・6㎞が開通となり、残り0・6㎞は平成14年(2002年)3月、開催ぎりぎりに開通させたのです。
 国道124号は、老朽化した銚子大橋も架け替えられ、混雑する知手交差点から鹿島セントラルホテル前の平泉交差までの6車線化も進められ、日々進化しています。2~3年後には東関東自動車道も全区間開通となるようです。国道124号の役割は、ますます大きくなると思います。

横田 喜一郎(よこた きいちろう)
 1981年に入庁し、土浦土木事務所に配属となった。2019年3月に技監兼検査指導課長で定年を迎えた。

地域経済支える重要道路

 私は平成27年4月、潮来土木事務所に所長として赴任しました。当時、潮来土木事務所では、国道355号牛堀麻生バイパスの地盤改良工事、宮中佐田線『猫帰橋』の下部工事、潮来佐原線の4車線化や深芝浜波崎線の拡幅工等などを行っていました。なかでも重要なのは国道124号神栖地区の6車線化事業でした。
 この路線は、鹿嶋、神栖両市を貫く背骨のような役割を持ち、鹿島臨海コンビナートを中心とする地域の経済を支える重要な幹線道路です。事業区間は、奥野谷知手線(通称ベルコン通り)と接続する知手交差点から、鹿島セントラルホテル前の平泉交差点までの約5・3㎞です。
 事業の目的は、交通量の増大に合わせて車線数を4車線から6車線に増やすことが主なものでした。同時に、中央分離帯の開口部を閉鎖して交差点のみで右折可能とし、また右折車線と直進車線の間隔を広くとるなどの事故防止対策により安全性を向上させることも目的のひとつでした。
 事業を進めるにあたっては、いくつかの課題がありました。
 まず一つ目は、現道での拡幅工事であるため、交通の流れを出来るだけ確保しながら、安全に工事を進めることでした。
 本路線は、鹿島臨海コンビナートが近いことから、朝夕の通勤時間帯には大変混雑し、それ以外の時間でも石油化学製品等を輸送する大型の重車両が多くなっていました。
 このため、事業区間を6つの工区に分け、知手交差点側から工区ごとに順次発注していきました。1つの工区が完了したら次の工区を発注することとし、工事区間が不連続になって、交通の流れが阻害されないよう気を配りました。
 また、地元警察署とも協議しながら地元の建設業の皆様に協力して頂き、安全対策を充実させることとしました。
 もう一つの課題は、事故防止対策として分離帯の開口部を閉鎖することや、分離帯等の樹木を無くすことについて、地元の理解を頂くことでした。
 開口部を無くすことで、利用者の利便性が低下し、沿線の住民や地元の商店の方から反対の声が上がることが懸念されました。
 また、片側に1車線増やすことにより分離帯を狭くすることと合わせて、見通しを確保するため植栽等を無くすこととしましたが、景観性が低下することについての心配もありました。
 分離帯には、夾竹桃や山茶花などの低木のほか、鹿島セントラルホテル付近には桜や松の大木があり、桜が満開となる4月上旬のころには、松の緑と見事なコントラストを描いていました。これらの樹木には、地元の方々にとって鹿島開発の記念としての強い思いがあるということも、先輩方から聞いていましたので尚更でした。
 このため、地元の神栖市のご協力を頂きながら地区ごとに説明会を実施し、事業目的、工事の進め方や事故防止対策等を丁寧に説明したことで、大きな反対の声が上がることも無く、円滑に事業を進めることが出来ました。
 歴史を紐解くと、国道124号は、かつて銚子水戸線と呼ばれ、さらに遡っては飯沼街道(銚子の飯沼観音へ至る道)ともいわれ、私の地元銚子と強い結びつきがあります。
 また、124号の起点にある銚子大橋は昭和37年に架橋されましたが、真新しい橋を渡りながら海のように広い利根川を眺めることは、子供の頃の自分にとって異次元の世界でした。さらに、建設中の鹿島臨海コンビナートまで連れて行ってもらった際には、松林と砂丘に囲まれた中に忽然と現れる工場群にわくわくしたことを、今でも覚えています。
 その後、県に入ってからは、道路建設課に平成8年から2年間在籍しましたが、橋梁担当として、国道124号に接続する新銚子大橋(利根かもめ大橋)の事業に関わりました。
 就任当時、千葉県の環境問題への対応により工事が中断されており、関係者との調整に追われることとなりました。地元の方からは「人とトンボとどっちが大事なんだ!」と怒鳴られたことがありました。自分自身も利用者の1人であり、1日も早い開通を誰よりも望んでいましたので、何とも言いようのない気分になりました。
 何とか、在任中に工事を再開させることが出来ました。平成12年の開通式の際には一般の通行者として参加し、感慨深いものがありました。
 そのほか、鹿行地域では潮来土木事務所、鹿島水道事務所と鹿島港湾事務所の3事務所に通算16年間勤務しました。道路管理者や占用者など、様々な立場で当地区のインフラ整備に関わってきました。その時々において、開発当時の歴史に触れたり、地域の方々の話を聞くなかで、これらの施設が利根川下流域の一体的な経済圏を支える重要な基盤であることを認識してきました。
 今でも仕事や買い物等で、毎日のように国道124号を利用していますが、6車線化した区間では快適に走行でき、安全性が大幅に向上したことを実感しています。
 国道124号という、地域を支える重要なインフラ整備に関われたことを誇りに思うとともに、ご指導頂いた先輩諸氏、支えていただいた所員の皆様と建設業の方々に、深く感謝を申し上げます。(島津就子)

お問い合わせCONTACT

電子版ログイン

書籍申込