いばらきの公共事業 県土木部道路建設課編⑤
2023.10.14
いばらきの公共事業(歴史をたどる)
北関東自動車道の思い出
渡邊 一夫 氏
元県土木部長(当時・県土木部道路建設課)
木村 克宏 氏
元県大子工務所長(当時・県土木部道路建設課係長)
私は国道50号をよく利用しますが、以前はいつ通っても混雑していました。特に、朝夕の通勤時間帯の混み具合は相当なものでしたが、今では昔に比べ、スムーズに走ることができます。国道50号の一部区間4車線化が進んだ効果もありますが、北関東自動車道の供用が大きいのだなと思います。
組織拡充して用地交渉
北関東自動車道は、ひたちなかICから栃木県を経て、群馬県高崎市の高崎JCTに至る、延長145㎞の高速道路です。平成23年(2011年)には、4車線で全線開通となりました。このうち茨城県内の区間は54・6㎞であり、この他にひたちなかICから常陸那珂港ICまでは、茨城県道路公社の有料道路区間となっております。
私は平成6年4月、道路建設課高速道路対策室の室長補佐になりましたが、その前の2年間は土地開発公社に出向しておりました。
当時、ひたちなかICから水戸南ICまでの10・2㎞については、国が東水戸道路として事業化しておりましたが、その西側は事業の目途が立っておりませんでした。県内の残り44・4㎞区間は、日本道路公団が国の施工命令を受けて事業実施する区間なのです。土地開発公社は、このエリアの買取請求について、事業化を早めてもらう点から、道路公団と協議しつつ積極的に応じておりました。
道路建設課では、どうにか早く事業化してもらおうと道路公団に要望し続け、私も土地開発公社の立場として常に同席しておりました。道路建設課と土地開発公社で協議をし、北関東自動車道の用地取得は道路建設課経由で、土地開発公社がすべて受託したらどうかという案がまとまり、道路公団に提案したのです。
これらのことがあってか、まもなく水戸南ICから友部ICの21・7㎞区間について、事業のために現地へ入るということになりました。さっそく道路公団の水戸事務所ができ、諸々の調整を経て、手順を踏み、地元説明会を開いて、いよいよ測量調整に入ったのです。説明会には、道路建設課と一緒に同席しておりました。
正式に、土地開発公社が支払業務まで含めた用地事務の業務を受託することになり、組織を拡充して、水戸市、茨城町、友部町からも職員を派遣していただき、対応したのです。
室長補佐に戻ってからも、設計協議や用地説明会に同席しました。地権者の皆様から色々条件は出されましたが、用地買収は順調に進み、まとまったところから工事に着手していったのです。
工事も積極的に進められ、平成12年には21・7㎞区間の供用開始ができました。西側についても同様に進められ、平成20年、ついに県内54・6㎞全区間が供用開始となりました。
途中、国、道路公団の事情により、全国で整備中の路線のほとんどが、暫定2車線でやむなしの時がありました。しかし北関東自動車道については、4車線で進めて構わないということになりました。県、地元市町の協力体制が認められたのだと思います。ちょうど私が土木部長の時、栃木県の土木部長と一緒に県境のトンネルでの貫通式に立ち会えたのも、いい思い出です。
今では北関東自動車道は、茨城港とあいまって、北関東の物流の大動脈として活躍しているのです。
木村 克宏(きむら かつひろ)
1952年2月7日生まれ。71歳。75年に入庁し、大子土木事務所に配属となった。その後、都市施設課、道路建設課係長、県住宅供給公社建設部長、水戸土木事務所次長兼道路整備第一課長を経て、2012年3月に大子工務所長で定年を迎えた。現在は川田建設㈱茨城営業所長を務めている。
側道整備も事業化図る
私は平成3年度から7年度までの5年間、道路建設課に勤務し、北関東自動車道(水戸~友部間)の事業調整を担当しました。
当時は県内で、北関東自動車道、首都圏中央連絡自動車道、東関東自動車道の高速道路ネットワーク化を早期実現するため、国等への働きかけを強く進めておりました。栃木県、群馬県との北関東自動車道建設促進期成同盟会としての要望活動はもとより、茨城県独自に早期の事業着手へ向け、県土地開発公社を活用した事業用地の先行買収等の協議調整を進めていました。
このような中、平成4年度に北関東自動車道の事業化へ向けて、日本道路公団の担当者2名が県に配置され、測量調査業務がスタートしました。平成5年度には、水戸市内に水戸工事事務所が開設され、水戸市、茨城町担当と友部町担当の調査課長がそれぞれ配置されたことから、一気に調査・設計業務が加速しました。この時、日本道路公団も事業費の確保に相当苦慮したと聞いております。
北関東自動車道は、常陸那珂港へのアクセス道路としてはもちろん、沿線開発として、茨城町西IC周辺での茨城中央工業団地計画や、友部JCT周辺での流通団地(現、茨城中央工業団地:笠間地区)計画が進められ、調整協議が進められました。
設計協議では、北関東自動車道整備によって分断される県道・市町村道等の協議が連日続きました。県・市町により、それぞれ路線ごとの改良計画を提出し、それに見合った高速道路の影響範囲について、日本道路公団に整備を強く要望しました。事業の着手時期等によっては、費用負担となる橋梁・横断ボックスカルバートが発生しました。
また、市町村道のうち、地元の生活道路としての役割を担う路線は、統廃合による整備が強く提示された箇所についてそれぞれの機能維持を図っていくため、連続した側道の整備を強く要望し事業化を図りました。このことは、後に栃木県、群馬県の担当者からも驚かれました。
設計協議の進捗に合わせて、県土地開発公社により用地買収に向けた準備作業も急ピッチで進められ、平成6年度末には水戸市・茨城町・友部町それぞれで、集団調印による用地契約が実施されました。
北関東自動車道は、調査開始からわずかな期間で用地契約まで進みました。日本道路公団からは「これまで全国で数多くの高速道路が整備されたが、これほどまでに早く、スムーズな事業進捗が図られた路線はない」と、感嘆の声を聞くことが出来ました。地権者の協力が得られたことはもちろん、県、市町と日本道路公団、それぞれの担当者の熱意と連携が強く働いた結果であると思います。その結果、水戸~友部間が栃木県、群馬県より先に供用開始となりました。
私はその後、港湾課に勤務し、のちに県土地開発公社に出向となり、北関東自動車道の友部町~栃木県境間の用地取得業務に携わることになりました。この時は、バブルがはじけて土地価格の下落が続く中で用地契約を進めました。日本道路公団より、交渉途中で買収価格の見直し(値下げ)が指示され、その対応に大変苦慮しました。この区間は農用地、山林などが多く、用地買収額で算定される、受託事務費が少なかったため、日本道路公団に特段の配慮をお願いしました。
現在、北関東自動車道を利用するたび、設計協議での担当者の顔や地権者交渉での記憶が数多く思い出されます。(島津就子)