いばらきの公共事業 県土木部港湾課編④
2023.06.25
いばらきの公共事業(歴史をたどる)
常陸那珂港と阿字ヶ浦海水浴場のおもいで
渡邊 一夫 氏
元県土木部長(当時・県土木部港湾課課長)
海野 定文 氏
元土木部技監兼常陸大宮土木事務所長(当時・県土木部港湾課技佐兼課長補佐(技術総括))
阿字ヶ浦侵食対策 ブロック集め離岸堤完成
私はひたちなか地区の開発に、道路建設課という立場で前々から携わっていました。射爆撃場の跡地であることから、各事業者のための工事用道路をつくるため、不発弾の調査なども行い、非常に大変だったことを覚えています。当時、港湾のことまで携わるとは思ってもみませんでした。また、子どもを連れて何度も訪れた阿字ヶ浦海水浴場には、家族との思い出がたくさんあるのです。
常陸那珂港は、北関東自動車道と直結しております。圏央道も整備され、常磐道とも相まって、高速道路ネットワークの充実により港へのアクセスも一層向上。常陸那珂港は北関東の玄関口として期待されております。
臨港地区には、建設機械メーカーのコマツと日立建機㈱が進出しております。コンテナ・RORO航路を中心に、内貿・外貿あわせて20航路が運行されております。近くには国営ひたち海浜公園があり、さらに「東洋のナポリ」といわれた阿字ヶ浦海水浴場があるのです。
私は平成14年4月から平成16年3月まで港湾課長を務めました。平成15年、常陸那珂火力発電所の本格稼働にあたり、灰処分の問題や石炭船の接岸の問題など、たくさんの協議を行いました。
臨港地区の造成工事も積極的に進めました。この頃は、「企業立地の見込みもないのに無駄なことをやっている」など、陰口を叩かれたりしておりました。
企業誘致グループにはコマツと日立建機をはじめ、多くの企業に常陸那珂港の優位性を説明し、立地を進めて歩いてもらいました。数年後になりますが、無事、コマツと日立建機に立地いただいたので、造成を進めておいて大いに良かったと、しみじみ思いました。
思い出深いのは、阿字ヶ浦海岸の浸食対策です。寒い冬のことだったと思いますが、橋本知事と一緒に、現場で観光の方々の説明を受けたのです。
当時の海岸は、立派な砂浜は跡形もなく、砂利が剥き出しで荒い波が打ち寄せていたのです。とても海水浴どころではない、何とかしてほしい、と訴えられました。
知事からも「来年の海水浴の時期までに、なんとか海水浴場を取り戻せないか」と言われ、やってみます、ということになりました。
その後、茨城大学の三村教授(のちの学長)の全面的なご支援を得て、関係者が集まっての勉強会を開いてもらいました。色々と案はありましたが、結果的には、まず沖合に数千個の消波ブロックで離岸堤をつくり波を弱くする、そして北側に砂の流れを止める突堤をつくり、そのあと砂を入れる、ということになりました。
消波ブロックをつくっている暇はありません。各港湾事務所で持っていたブロックをとにかく集めて、地元の建設業の皆様にも無理をお願いし、まずは離岸堤を急ぎ完成させたのです。突堤も大急ぎで完成させ、国営公園側に堆積していた砂を、浸食されている箇所に入れ始めました。砂はすぐ沖合に持っていかれてしまいましたが、あとからあとから投入したのです。そうするうちに、やっと砂浜が出来ました。投入した砂の量は数十万立方mです。
このようなことで、何とか海水浴に間に合わせ、砂浜を復活させたのです。遠浅の砂浜が復活し、海水浴シーズンには多くの方々が訪れるようになりました。大いに賑わいを取り戻した美しい砂浜は、まさに「東洋のナポリ」。砂浜復活を見届け、ほっと安心したことを今でもまざまざと覚えております。
海野 定文(うみの さだぶみ)
1949年11月28日生まれ。73歳。初入庁時は、高萩土木事務所に所属。その後、港湾課技佐(常陸那珂港整備推進担当)、港湾課技佐兼課長補佐(技術総括)、建設リサイクル推進室長、道路維持課長などを経て、2010年に土木部技監兼常陸大宮土木事務所長で定年を迎えた。
港湾振興を図り企業誘致
私が港湾課技佐の辞令を受けたのは、平成14年4月のことです。当時、港湾の経験は全くありませんでした。恥ずかしながら、まずは若手職員から港湾用語集を借りてコピーし、1から勉強です。分からないことは聞き、現場にも積極的に足を運ぶ。とにかく開き直って、体当たりで取り組んでいくしかありませんでした。
当時の常陸那珂港は、北公共埠頭地区にガントリークレーン2基設置、石炭火力発電所2基の稼働、中央埠頭地区での石炭灰による埋め立て、臨港地区の土地造成、東防波堤の延伸など、多くの事業が進んでいました。
港や臨港地区の整備が着々と進むなか、FAZ物流倉庫も整備され、海外へのポートセールスなど、港湾振興を図るとともに、企業誘致にも力を入れていました。
また当時は、阿字ヶ浦海岸の浸食が進んでいて、喫緊の対策が求められていました。かつては日本一の来客数を誇った、美しい海岸が侵食され、砂浜が減少し、護岸まで波が打ち寄せている状況だったのです。
そこで、茨城大学の三村先生にご指導いただき、地元の関係者、県、市等関係部局の職員などで構成する検討委員会を設立。多くの検討を重ね、緊急で対策を実施することになりました。
前面には離岸堤2基、北側には突堤1基の建設、さらに養浜や、常陸大宮土木事務所が担当する護岸復旧工事との連携対応により、海岸を復活することができました。
課長の指示を受け、短期間のうちに工事を終えることができた時は、安心すると同時に感動したことを覚えています。
このほか、日立港で起きたチルソン号の座礁事故にも関わり、現地で指揮を取りながら大変苦労した思い出があります。その後、平成15年4月には、川尻港にクジラが漂着したこともあります。防波堤の消波ブロック上から大きなクジラを回収する作業は難航しましたが、日立港で起きた座礁事故の際、タイヤチップの散乱防止に使用したワイヤモッコが役に立ったのです。ワイヤモッコを利用して、クレーンで引き揚げてトレーラーに積み、川尻海岸に一時埋設しました。
このクジラは、体長約13m、重さ約33tのセミクジラでした。今はアクアワールド大洗水族館に、骨格標本として展示されています。全身の骨格標本は国内でも数体を数えるばかりの大変貴重なものだそうです。セミクジラの漂着という珍しい事例に直面しましたが、こうして過去の経験を活かすことで、乗り切ることが出来ました。
私は春になると、ひたち海浜公園に足を運んでいます。園内にあるみはらしの丘の頂上から、広大な景観とともに港湾の整備状況などを眺めるのが、毎年の楽しみの一つです。
かつて、常陸那珂港が無駄なインフラ整備の代表のように言われたこともありました。しかし今こうして、丘の上から、発展する常陸那珂港や阿字ヶ浦海岸方面を眺めると、担当していた当時を思い出して、大変感慨深いものがあります。
みはらしの丘は、道路等の建設発生土のストックヤードとして造成が進められた場所であり、私が建設リサイクル推進室長を務めていた時、現地調査を行ったことがありました。今ではネモフィラ、コキアなど、絶景を一目見ようと大勢の観光客が訪れる一大観光スポットになっており、こちらもまた心に染み入るものがあります。
県を退職した後は、東京ガス㈱で日立港LNG基地および首都圏と県を結ぶ幹線パイプラインネットワークの建設5カ年プロジェクトに携わりました。この時、港湾での経験や学んだこと、お世話になった方々との繋がりに、大変助けられました。港湾課での3年間は、何にも代えがたいほど大切な経験をさせていただきました。大変感謝しています。(島津就子)