茨城の歴史点描65 「水戸黄門」の誕生
2023.12.26
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
長きにわたった本連載も今回が最終回。最後に、徳川光圀が「水戸黄門」として知られるようになったいきさつを見ていきたいと思います。
「水戸黄門」として光圀が登場するのは、江戸時代後半のことです。ちょうど伊勢や善光寺、あるいは金毘羅への参詣をかねた旅が流行し、各地の観光への関心が高まっていました。そうしたなかで「水戸黄門記」という物語がつくられたのが最初といわれています。これは、光圀が松雪庵という俳人とともに奥羽から越後にかけて漫遊するというストーリーで、芭蕉の「奥の細道」の影響も感じられます。
その一方で「水戸黄門仁徳録」という勧善懲悪をテーマとする物語も作られ、幕末に向けて混とんとする社会に受け入れられていきます。これは同じころに、水戸藩九代藩主斉昭が「攘夷の旗頭」として、全国の期待を集め、水戸藩が注目されつつあったことにも関係があるかも知れません。
『大日本史』が完成に近づいた明治三〇年前後、大阪の講談師がお供に助さん(佐々木助三郎)、格さん(渥美格之進)を登場させた「水戸黄門漫遊記」を創作します。助さんは『大日本史』編さんの中で、全国の史料集めに活躍した「佐々介三郎」、格さんは彰考館総裁として史料をまとめた「安積覚」の名前をそれぞれもじったものです。作者の光圀と『大日本史』に対するリスペクトが感じられます。
さらに、大正時代にはいると講談を本にまとめた講談本が大ヒットします(講談社もその出版で知られるようになりました)。とくに「水戸黄門漫遊記」は「猿飛佐助に次ぐ人気となります。
昭和に入ると、まずは映画が多数制作されるようになります。その数は戦前、戦後を通じて実に一〇二本に及びました。同時に、吉川英治や直木三十五、村上元三などの著名作家による小説版「水戸黄門」も相次いで出版されます。
そうした流れの中で、昭和三十九年(一九六四)にテレビ番組として「水戸黄門」が登場するのですが、最初は三〇分番組で一年間の放映であったようです。その後、昭和四十四年(一九六九)に東野英治郎主演で始まった番組が、スポンサーの松下電器創設者松下幸之助の後押しもあり、主演を変えながらも平成二十四年まで放映されたのです。全一二二七回、平均視聴率二二%を超えたこのシリーズにより、「水戸黄門」の名は全国に広がりました。
一方では、全国を漫遊したなどという様々な虚像が独り歩きし、光圀の実像や業績が霞んでしまったことも否めません。二〇二八年の生誕四〇〇年に向け、徳川光圀の真実の姿を知っていただきたく思います。ご愛読ありがとうございました。