茨城の歴史点描64 『大日本史』とは?
2023.12.16
茨城の歴史点描
光圀の業績として最たるものは、『大日本史』の編さんを始めたことです。司馬遷『史記』の伯夷伝に衝撃を受けたことで、歴史上の人物の生きざまを明らかにすることの重要性に目覚めたことが理由の一つですが、幕府が『本朝編年録』(のち『本朝通鑑』)を、尾張藩でも『類聚日本紀』という、天皇を中心として年代順に事項を並べた歴史書の編さんを始めていたこともその背景にあったと思われます。
こうしたなかで、光圀は幕府や尾張藩とは異なる歴史書をつくることを企画します。その構成はつぎのようなものでした。
全体は四部構成です。一部(本紀・七三巻)は神代の昔から南北朝時代(一三九二年ごろ)までの百人の天皇(神武~後小松)の事績、二部(列伝・一七〇巻)はその時代に生きた二四一五人に及ぶさまざまな分野の人々の伝記、三部(志・一二六巻)が神社や祭祀、暦、天文、自然災害や軍事制度など一〇のテーマごとの歴史、四部(表・二八巻)が全国の官職にあった者の古代からの一覧表となっています。
このうち人物伝である、一部と二部が主要な部分です。これは『史記』と同じ形式で、光圀が最もこだわった点です。これはほぼ光圀在世中に完成しました。しかし、残りの三、四部の編さんに手間取り、結局すべて(三九七巻)が完成したのは、明治三十九年(一九〇六)で、実に二四九年の歳月を要しました。
光圀としては、伯夷と叔斉のような、歴史の中に埋もれていた人物を再評価すること、そして彼らの「義」に人々が学ぶことを期待したことは確かでしょう。しかし、最大の目的は徳川家の支配を正当化することにありました。
徳川家はその祖先を新田氏としています。足利尊氏とともに後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に活躍した新田義貞はその一族です。その後、尊氏は後醍醐天皇を裏切り室町幕府を開きましたが、義貞は最後まで忠節を尽くしました。
そして足利氏は一五代で滅び、代わって新田氏の末裔である徳川氏が新たに幕府を開くことになったのは、先祖の行いに対する「天の応報」の結果であるとしたのです。そのためには、後醍醐天皇の系統(南朝)を正統としなければなりません。『大日本史』の特色とされる「南朝正統論」はここから生まれました。
享保五年(一七二〇)、水戸藩はひとまず完成した「本紀・列伝」(二五〇巻)を幕府に献納しました。ときの将軍吉宗はこれを出版しようとし、朝廷に許可を求めましたが、認められませんでした。南北朝合一以後、歴代天皇は北朝系統だったからです(約九〇年後、朝廷への献上が認められました)。