茨城の歴史点描63 徳川光圀の謎④
2023.12.08
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
光圀の謎シリーズ、四回目は引退の謎です。
元禄三年(一六九〇)十月十四日、江戸藩邸に将軍綱吉の使者、老中阿部正武が訪れ、隠居の許可が伝達されました。光圀自身も体力の衰えを自覚しており、また養子としていた綱條を藩主とすることで、兄への義理も達成できる、という点からみれば、順当と思われるところです。
しかし、世間はそうはとっていなかったようで、幕府の歴史を記した『徳川実紀』さえ、「そもそもこの卿(光圀)の隠退こそいぶかしけれ。いまだ衰老といふにもあらず」と隠居に疑問を呈し、「故ある事なるべし(何等かの理由がある)」と続け、人望のある光圀を綱吉が疎ましく扱ったことが背景である、としています。
かつて、自分の子を後継に立てようとする綱吉に対し、光圀は綱吉の兄の子を後継にするべきである、と意見したことがありました。また、生類憐みの令に対しても批判的でした(犬の皮を贈ったというのはフィクションですが)。こうしたことから綱吉が御三家の長老としてときに厳しく意見する光圀を煙たい存在に思っていたことは確かなようです。
さて、「何らかの理由」とは、具体的に何だったのでしょうか。
それは隠居の年の五月にさかのぼります。この月、尾張、紀州両家当主が揃って、それぞれの初代の先例に従って「従二位大納言」に昇進しました。官位官職は朝廷から下されるものですが、将軍の推薦が必要です。
初代頼房が「正三位中納言」止まりであったという先例があるので、尾紀両家のように大納言までは無理にしろ、父と同じ官位官職まで昇進の沙汰があって当然と考えても不思議ではありません。
その直後、光圀は隠居願いを提出したわけですが、綱吉はその許可の翌日、中納言への昇進を光圀に伝えました。
そのときの所感を光圀は「クラヰ山 ノホルモクルシ 老ノ身ハ フモトノ里ソ スミヨカリケル」と歌に詠んでいます。官職(位)を山にたとえ、今さら昇進しても心苦しいだけで無意味という意味です。
隠居後の官職昇進は例外的で、光圀個人にとっては六〇年ぶりの昇進であったことを考えると、やはり光圀の隠居の原因であったことを暗示しているようです。
ところで、江戸時代、官職名を唐名におきかえて表すことが一般的でした。「中納言」は「黄門」に相当するとして、光圀に限らず、中納言に任官した者は「〇〇黄門」と称されました。
ということで、光圀が「水戸黄門」と称されるようになるのは、藩主を引退してからのことで、これは後にも先にも例のないことでした。