茨城の歴史点描

茨城の歴史点描60 徳川光圀の謎①

2023.11.09

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 「水戸黄門」で知られる、水戸藩二代藩主徳川光圀が生まれて、今年は三九五年になります。「生誕四〇〇年」に向けて、ここで広く知られる「黄門様」とは異なる実像をご紹介していきたいと思います。
 さて、光圀の生涯には、いくつかの謎がありますが、最初は出生に関わるものです。
 光圀は、寛永五年(一六二八)に水戸城下の三木之次の屋敷(現在の水戸駅付近)で生まれました。歴代藩主では唯一の水戸生まれ、しかも家臣の屋敷で生まれたということには理由があります。
 光圀の母は「久子」といい、もともと水戸家の奥向きに仕える老女(奥女中のなかでも上位)の娘でした。母とともに奥に出入りしているうちに、頼房に見初められたようです。ところが彼女の懐妊が明らかになると、頼房は家臣に「堕胎させよ」と命じます。しかし、命に背いた家臣が密かに久子を江戸屋敷から水戸城下の三木邸に移して出産させ、しばらくそのまま養育させました。
 実は、光圀の兄で長男になる頼重も久子の子で、しかも同じように堕胎を命じられながら、家臣の屋敷で生まれています。
 なぜ、頼房は一度ならず二度も、久子の子の出生を阻もうとしたのでしょうか。この理由については、つぎのようにさまざまな推測がされてきました。

  • 頼房の側室(頼房は正室をもたなかったので的確な表現とはいえませんが)のなかで、おかちが最も権勢をもっており、その嫉妬心に頼房が配慮した。
  • 当時、頼房の兄義直(尾張家)、頼宣(紀州家)にまだ男子が生まれていなかったため、それに遠慮した。
  • 久子の母親の許しを得ずに、頼房が側室でもない娘に手を付けたため、母親が怒った。

 まず、①については、五九年の生涯に九人の側室に一一男一五女をもうけた頼房ですが、そのうち八人がおかちを母としており、彼女は確かに寵愛されていたようです。とはいえ、光圀兄弟の間におかち以外を母とする子もいましたが、堕胎を命じられた形跡はありません。
 つぎに②については、御三家の尾張、紀伊の当主に、この時点で男子が無かったことは事実ですが、事前に生まれる子の性別が分かるわけもなく、無理があります。
 そして③については、頼房が一奥女中の怒りに負けたというのも考えにくいところです。ただ、江戸時代は、殿様が気に入れば誰でも側室にできるわけではなく、正室はじめ上位奥女中が承認する必要があったようです。そうすると久子の母親の意向は無視できないものがあったのかも知れません。
 いずれにせよ、真相は永遠の謎ですが、光圀の人生にとって、家臣の家で幼少期を伸び伸びと過ごしたことは、大きな意味をもつことになるのです。

お問い合わせCONTACT

電子版ログイン

書籍申込