茨城の歴史点描

茨城の歴史点描58 名前の「読み方」

2023.09.14

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博 

 歴史上の人物名には意外な読み方をする場合があります。たとえば、幕末の京都所司代として、京都守護をつとめた会津藩主松平容保とともに、京都の治安維持に貢献した「松平定敬」などがあげられます。これは「さだあき」と読ませるのですが、「敬」を「あき」と読ませるとはなかなか想像できません。そういえば「容保」も予備知識がない人は、どのように読むのか戸惑うかもしれませんね。
 この二人の兄にあたる人物に江戸時代最後の一橋徳川家当主となった徳川茂栄(もちはる)という人物がいます。彼は、尾張徳川家の分家美濃高須藩主松平家の二男に生まれましたが、兄の後に高須藩主となったのを皮切りに、本家である尾張藩主、最後には一橋徳川家当主となるという数奇な運命をたどりました。血縁的には祖父が第七代水戸藩主徳川治紀の弟にあたり、容保や定敬とともに水戸藩主の血を受け継いでいます。
 さて、武家の場合、ライフサイクルにしたがって名前が変わります。茂栄に関しては、それぞれの段階での命名経過がわかる文書が残されています。
 これによると誕生時には、祖父から「鎮三郎」と名付けられますが、「鎮」に「ヤス」とルビが振られた文書が添えられており、これは「ヤスサブロウ」と読むことがわかります。元服時には、父親の松平義建から「建」の字を与えられ、「建重」という「諱(いみな)」名を贈られます。これも「タツシゲ」とルビが振られた文書(写真)があることにより読みがわかります。なお、元服時に父の名の一字を与えられるのは武家の慣習であったようで、たとえば慶喜は父斉昭から「昭致」と名付けられています。
 その後、尾張藩主になると慣例により将軍からその諱の一字を与えられます。この時は一四代徳川家茂だったので、その「茂」という字を与えられました。この字を使って諱を名乗るわけです。それは幕府儒者の林大学頭により「茂徳」とされました。
 これは「モチナガ」と読ませますが、この読みを定めたのは尾張藩の儒者佐藤楚材です。つまり名前と読みの選定は別であった、ということが残された文書により明らかになっています。
 なお、「諱」とは「忌名」であり、本人以外は書状等に用いないことが慣例でした。たとえば、家康宛の書状等に「家康様」などと書くことや、本人に対して「家康殿」などと呼び掛けることはなかったのです。

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