茨城の歴史点描57 見かけが大事
2023.08.31
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
写真は、現在、歴史館の一橋徳川家記念室で展示している資料です。
本コラムでもたびたび取り上げた「結城水野家」に伝来してきたもので、いったん改易された同家が再興され、新たに結城に封じられる際に、ときの将軍徳川綱吉から与えられたものです。
まず、向かって右側の資料には、「下総国結城郡之内八箇村」や上総国山辺郡や武射郡に「領知」を与える旨と、交付年月日「元禄十三年十一月十五日」が記され、綱吉の朱印(写真では見にくいですが)が捺されています(「朱印状」と称します)。
これは将軍が臣下に「領知」を与える際の文書です。「領知」とは、「領有権(土地所有権)」と「知行権(行政権)」を意味します。近代とは異なり、幕府は各領主に所有を認めた土地に対して行う年貢徴収や行政には、直接関与しないのが原則でした。
「上総国山辺郡」「武射郡」とは、現在の千葉県中部の山武市や東金市の地域にあたります。結城からはずいぶん離れていますが、譜代大名や旗本などは、領知が離れ離れになっていることは珍しくありません。この時の総石高は一万石でしたが、のちに結城近隣の真壁郡や下野国の村々が加えられ、一万八千石になります。
向かって左側にある横長の文書は、綱吉の朱印状と同日に発行された「目録」です。雁皮を原料とした硬い紙を用い、各郡内の村名と郡ごとの石高が書かれ、交付年月日と老中たちの署名と花押があります。
さて、今回注目していただきたいのは用紙の大きさ、紙質、文書の差出者と宛先者の表現など、内容以外の点です。
大きさは「朱印状」「目録」ともに竪四五センチ以上ありますが、これは当時の文書では最大サイズで、用紙も前者は大高檀紙、後者は雁皮紙と厚いものが使われています。幕府の権威を表現したものといえます。
さらに、「朱印状」には綱吉の署名はなく「朱印」だけが捺され、末尾にある宛先、「水野隠岐守」も最下段に、さらに敬称は「とのへ」と平仮名で書かれています。これは二者間の文書の形式としては、かなり礼儀を欠くもので、将軍と臣下である大名の立場の違いを表現しています。いっぽう「目録」の差出は、老中なのできちんと署名して花押を据えています。宛先の位置も若干高めに書かれ、敬称も「殿」と漢字で、こちらは儀礼的にはほぼ対等なものとされます。
このように文書には、書かれている内容だけでなく、「見かけ」も重視されていた場合があるのです。