茨城の歴史点描56 穴山梅雪旧臣と「水戸藩」②
2023.08.05
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
前回ご紹介したように、佐竹移封後の県北地域の治政は、家康五男で「穴山武田家」の名跡を継いだ信吉に付属させられた、梅雪の旧臣たちが中心として担いました。
彼らは村々を知行地として宛がわれましたが、いくつか例をあげてみましょう。
・万沢主税助(二〇〇〇石)
上国井(水戸)・下圷(城里)・金上・市毛(ひたちなか)・中野(常陸太田)など
・河方織部(二〇〇〇石)
田崎(那珂)・諏訪間(東海)・稲田(ひたちなか)・太田(常陸太田)・野口平(常陸大宮)など
・佐野兵左衛門(二〇〇〇石)
中野(ひたちなか)・三美(常陸大宮)・田崎(那珂)など
・芦澤伊賀(一〇〇〇石)
上大賀(常陸大宮)・東木倉(那珂)・下根本(常陸大宮)・上村田(常陸大宮)など
・高井次郎左衛門(一五〇〇石)
岩崎(常陸大宮)・部田野(ひたちなか)・上大賀など
・西川大学(一五〇〇石)
平戸(水戸)・下村田・岩崎(常陸大宮)など
ほかに武田信玄、勝頼に仕えていた、小柳津久七、岡部次郎兵衛、大森頼慶、有賀喜衛門なども信吉のもとにつけられました(甲州衆)。他からの新参も含めた家臣は一五九名とあります(『水戸市史』)
こうして信吉による統治が始まりましたが、実質的には家康の直接指示によるものが多かったようです。
ところが信吉は水戸に移って一年を迎えることなく、慶長八年(一六〇三)九月、病のため二十一歳で亡くなってしまいます。
その死後まもなく、家臣たちの間に知行所や年貢収納方法をめぐって内紛が勃発、蘆澤伊賀や佐野兵左衛門らが、万沢主悦助、帯金刑部助、河方織部、馬場八左ヱ門らの家老たちを糾弾する事態となりました。
これは家康の知るところとなり、慶長八年の暮、家康は彼らを江戸に呼び寄せ面前で対決させました。その結果、四人の家老は改易となり、それぞれ榊原家などの大名に預けられました。
その後、信吉の家臣たちは、その後水戸に封じられた家康一〇男頼宣、そして頼房に引き継がれますが、最終的に水戸に残されたのは三三人であったと伝わります。
なお、改易となった四人の家老の子孫たちも、それぞれ時期こそ違いますが、頼房が藩主となった水戸藩に再び仕えています。