茨城の歴史点描54 武田氏滅亡への一歩
2023.06.29
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
大河ドラマでは、長篠・設楽原で織田信長と徳川家康が武田勝頼を撃破するシーンが描かれました。この後、武田氏は滅亡に向かっていくのですが、なかでも一つの分岐点となったのは、高天神城(静岡県掛川市)の攻防戦でしょう。
この城は遠江の東、駿河との国境付近にある標高一三〇メートルほどの山城です。今川氏滅亡後は家康の支配下にありましたが、長篠・設楽原の戦いの前年にあたる、天正二年(一五七四)に武田勝頼に奪われていました。
その後、信長の先鋒として、家康は城の周囲に六つの砦を築き補給路を断ち、天正八年(一五八〇)九月に攻撃を開始します。しかし、決め手がないまま籠城戦に突入して、五か月が過ぎた天正九年(一五八一)一月、城内から降伏を求める「矢文」がもたらされます。家康は、これをさっそく信長に知らせ、判断を仰ぎます。
これに対し信長は、家康陣中にいた家康の叔父(水野信元、母於大の弟)水野忠重宛に書状を送りました。そこには「矢文」に対する対応に加え、今後の武田氏対策の腹案が示されており、これを家康に伝達することが書かれていました。
対応策は、つぎの二点に要約されます。
①武田方は遠江を放棄して駿河・甲斐を死守しようとする戦略であろうが,私(信長)は一両年中に武田攻めを計画している。
②それゆえ,今、降伏を認めないと家康はしばらく対応に苦労するであろうが,武田方に援軍を送る力はないので、結果的に城は見殺しとなるであろう。
この点について、今回の大河ドラマの時代考証をつとめている平山優氏は「高天神城の降伏を認めないことにより、援軍を出せず見殺しにした状況をつくり、武田勝頼に対する諸将の信頼を失わせる」ことを信長が狙っていたことを示すものとしています。
これから二か月後、城中の兵粮が尽き、餓死者もでるなか、高天神城守将岡部元信は、包囲する家康軍に攻撃をしかけ、ほとんど全滅します。
その後の信長による武田攻めでは、信長の見込み通り、各地で裏切りが続き、高天神城落城からちょうど一年後の天正十年(一五八二)三月、勝頼は自害し、信長・家康の武田攻略は終了しました。
この書状は、忠重の子孫である結城藩主水野家に伝えられ、明治以降もほかの文書とともに結城藩士の末裔の方々によって守られてきました。現在は歴史館に保管されていますが、七月一日から岡崎市美術博物館での大河ドラマ特別展で展示されています。