茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㊿ 水戸藩主の「参勤交代」

2023.05.12

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 例年より新緑の季節が早まっていますが、江戸時代、この時期は参勤交代のシーズンでもありました。三代将軍家光が大名に対して定めた「武家諸法度」のなかで、「毎年夏四月中参勤せよ」としたのが、その始まりです。現代感覚だと「夏四月」というのは違和感がありますが、旧暦四月は新暦ではだいたい五月下旬から始まります。
 さて、この規定は外様大名に対してのもので、この時点では幕府職員である譜代大名は江戸常駐が原則でした。将軍親族である御三家はとくに縛りがなく、それぞれ任意に在地と江戸の間を往復していましたが、だいたいこの時期にあわせていました。
 ところで「水戸藩主は江戸在府が義務づけられていた。ゆえに副将軍とよばれた」という話を聞いたことがある方は多いと思います。各大名は原則として、江戸と各在地にそれぞれ一年いて、隔年ごとに参勤交代を行っていました。
 確かに、同じ御三家の尾張、紀州両家に比べて圧倒的に藩主が在地に赴く回数は少なかったのは事実ですが、「義務づけられていた」というのは全くの俗説といわざるをえません。
 実際のところ、一〇人を数える藩主たちの状況は、初代頼房が一一回、光圀が一〇回でしたが、三代綱條は四回にとどまり、以後は四代、五代が各二回、以降は六代、七代、一〇代が各一回、八代はなく九代斉昭が二回というところです。
 綱條が少ないのは、藩主就任後一〇年間は、養父光圀が領内の太田に隠居生活をしていたためかもしれません。親子が同じ時期に江戸を離れることはタブーであったからです。
 しかし、その後は、隔年ごとの参勤は尾張、紀州両家のみに許される、という「先例」が確立したため、四代宗堯が同様の参勤を申請しても却下されたことがありました。「義務づけられていた」という誤解が生じた要因はこのあたりにもあったのかもしれません。
 その後、九代斉昭は藩主就任四年後の一回(一年間在府)に続き、六年後に再度水戸に向かいます。このときは途中、将軍の日光参詣に供をした期間を除き、けっきょく藩主を解任されるまで五年間水戸にいました。
 とはいえ、結果的に「水戸藩主は江戸にいるもの」となり、それは「将軍を補佐する役目」をもっていたからだ、という解釈は幕末に向かって藩内で広まっていくことになったのは事実です。

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