茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㊾ 家康の命日と「東照宮」

2023.04.27

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 旧暦四月十七日は、徳川家康の命日です。元和二年(一六一六)のこの日、七十五年の生涯を駿府(静岡市)で閉じました。
 幕府の公式記録である『徳川実紀』には、大名たちへ「秀忠の政治に誤りがあったときには、それぞれが代わって政治をみよ」という内容に続き、「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず」と遺言した、とあります。この「天下」は「私」のものではなく「公」のものという考え方は、江戸時代の幕府政治の基本となりました。
 家康の遺骸は亡くなった当日夜には、久能山に移され二日後に埋葬されましたが、一年後に日光に移されています。その間、神号についての議論がありました。まず、ともに家康のブレーンだった以心崇伝と南光坊天海が、それぞれ「明神」と「大権現」を提案し、秀忠の裁定により後者に決定します。これをふまえ朝廷に神号を奏請すると、「東照大権現」「日本大権現」「威霊大権現」「東光大権現」の四案が示され、幕府は「東照大権現」を選択しました。
 その後「宮号」も与えられ、神社は「東照宮」と称することになりました。こうしたことから、後世、家康を指して「東照宮」「権現様」というようになります。
 さて、東照宮では家康の命日に例大祭を行います。秀忠や家光はその日に合わせ、諸大名を引き連れてたびたび日光に参詣しましたが、四代家綱以降は、吉宗、家治、家慶が各一回参詣するにとどまっています。
 東照宮は御三家や家康ゆかりの大名がそれぞれの地元に建立しています。家康十一男の初代水戸藩主頼房も、元和七年(一六二一)に現在地に建立しました。やはり家康の命日に例大祭が行われました。
 この祭礼にともなう行列は、藩士、町人を交えた水戸城下の一大イベントでした。神輿に供奉する行列には当初、甲冑を着用した藩士が騎馬で供奉(のち徒歩)しました。城下各町内からは趣向をこらした笠鉾(山車)が出されています。これは京都祇園祭の山鉾や日立の風流物をイメージしていただければよいのですが、たとえば義経弁慶などの人形を乗せたり、その上で踊りや狂言が演じられるなど大変華やかであったといいます。当時の記録には「京の祇園祭にも負けず劣らず」というように述べられています。
 残念ながら、この祭礼行列は大正四年(一九一五)を最後に途絶えてしまいましたが、一昨年秋に祭礼行列として部分的に再現されました。

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