茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㊽ 偕楽園の「左近の桜」

2023.04.12

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博 

 去る三月十六日、偕楽園において佳子内親王殿下と本県大井川知事による、「左近の桜」の植樹が行われました。  この桜は、令和元年九月の台風一五号による強風の影響で倒木した木に代わるものとして、宮内庁から拝領されたものです。その際、この「左近の桜」の由来に関して、一部報道に事実誤認および誤解を与える表現が見受けられましたので、参考までに経緯を記しておきたいと思います。
 まず話は、天保二年(一八三一)、水戸徳川家九代斉昭の正室として、有栖川宮家から嫁ぐことが決まった登美宮吉子が、ときの仁孝天皇から京都御所紫宸殿前のヤマザクラのひこばえを拝領したことに始まります。
 なお、現在も京都御所紫宸殿に向かって右側(御所側からは左側)に「左近の桜」が、反対側には「右近の橘」があります。写真(筆者撮影)は紅葉時期の「左近の桜」です。
 さて、その桜は当初、江戸小石川の水戸藩上屋敷に植えられましたが、天保十二年(一八四一)に弘道館が仮開館(事実上の開館)したのに合わせて、弘道館正庁前に移植されました。
 その後、この桜が枯死してしまったため、昭和三十八年(一九六三)に弘道館保存修理工事が完成したことを機に、県が宮内庁に交渉して苗木を譲ってもらいました。
 このとき、弘道館正庁前の「後継樹」のほかに、万一のためでしょうか、ほかに「予備樹」として二本が譲られました。そのうちの一本が偕楽園見晴広場に植えられたのです。弘道館の「後継樹」は今も美しい花を咲かせています。
 偕楽園に植えたのは、おそらく、維新後、好文亭奥御殿に吉子が四年ほど住んでいたという由緒によるものと思われます。
 この木は伸び伸びと大木に育ち、開花期にはたいへん見ごたえのあるものでしたが、いっぽうでは斉昭が意図した好文亭からの眺望の広がりを遮るという問題が、従来から指摘されていました。また、今回の倒木原因の一つとして、周囲に遮るものがない場所で強風の負荷がかかりすぎたということがあげられます。
 そこで、今回は京都御所の「左近の桜」の樹姿の再現に近づける方向で樹姿の管理が行われることになっています。これによって眺望や風当たりの問題も解決すると同時に、より紫宸殿前の「左近の桜」をイメージしやすくなることが期待されています。

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