茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㊻ 幻の「筑波高速度電気鉄道」

2023.03.22

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 以前、当コラムで「明治の鉄道敷設ブーム」と題して、明治二十年代からの県内に関する鉄道敷設願をいくつか紹介したことがありました。
 今回は、これとは別に「筑波高速度電気鉄道」をとりあげます。
 この鉄道計画は昭和三年(一九二八)三月十二日付に設立免許を得たもので、当初の免許では東京府北豊島郡滝野川町(田端)を起点とし筑波郡田井村(つくば市神郡)を終点としていましたが、翌年には起点を日暮里町、上野公園に延長、支線として南足立郡梅島村から千葉県南葛飾郡松戸町が追加されています。上野公園から筑波山ろくまでの約六三キロメートルを一時間余りで結ぶという、当時としては画期的な計画でした。
 当時、筑波山周辺では、筑波鉄道が大正七年(一九一四)に土浦、真壁間、翌年には真壁、岩瀬間が開通、荷物輸送の利便性が向上しただけでなく、観光客も増加していました。さらに大正十四年(一九二一)にはケーブルカーも開通するなどしており、こうした観光需要に目を付けたものと思われます。
 会社の創立事務所は東京丸の内におかれ、発起人は下坂藤太郎(一八六八~一九四一)ほか一七名でした。下坂は大蔵官僚から実業界に転じた人物で、当時は設立間もない日商(現在の総合商社双日の前身の一つ)社長を勤めていました。一方、地元では北条(つくば市北条)の穴沢清次郎をリーダーとして地主や商人たちが出資していた、といわれています。
 ところが、昭和五年(一九三〇)七月二十四日付で会社は京成電気軌道株式会社に譲渡され解散してしまいました。その後、筑波高速度電気鉄道が取得した免許区間の一部が、京成電気軌道に再交付され、京成線として開通して現在に至っています。
 もともと柿岡の地磁気観測に影響するという理由で直流電化が困難であったことなどから、早くから東武鉄道や京成に免許を売り込んでいたようですが、一部区間はじっさいに筑波高速度電気鉄道名で工事が進められていたので、最初から「免許転売」で稼ごうとしていたわけでもないようです。
 いずれにせよ短命に終わった鉄道会社でしたが、この時の予定路線は、その後開通した京成線やつくばエクスプレス線にほぼ一致するばかりか、後者の延伸案の一つとして筑波山までのルートが、九〇年余りの時を越えて、息を吹き返したことには感慨を覚えずにはいられません。

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