茨城の歴史点描㊹ 源蔵火事
2023.02.20
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
先日、栃木市に講演に行ってきました。先方から依頼された演題は「水戸天狗党の乱―源蔵火事―」でした。「源蔵火事」とは、元治元年(一八六四)六月五日、天狗党の田中愿蔵隊による栃木宿の焼き打ち事件のことです。
田中愿蔵は、現在の常陸太田市に天保十五年(一八四四)に生まれます。生家は医者で、水戸藩医の田中家の養子となっています。水戸藩主徳川慶篤に率いられて上洛した際に、尊攘運動に強く共鳴し、元治元年(一八六四)三月末の天狗党筑波山挙兵に参加、幹部の一人として主に軍資金集めを担っていました。
二〇歳の愿蔵が率いるのは、一三歳から四八歳と幅広い年齢層からなる、およそ一七〇人の一隊です。平均年齢は二四歳ということから若者が多く、出身地は常陸や下野のほか、遠くは庄内(山形県)や尾張(愛知県)などにも及び、身分も武士より農民が多く、ほかに僧侶、大工、修験など多彩でした。
栃木宿は日光例幣使街道の宿場町であると同時に、巴波川を介した舟運の集散地としても栄えていた町で、豪商も多く、今でも「蔵の街」として多くの蔵が残されています。
愿蔵の一隊が、この町に侵入したのは六月五日のことでした。その様子は、陣鉦・陣太鼓を打ち鳴らし、大幟を立て、鑓五〇本、鉄砲八挺を携える、という派手なものでした。
彼らは、住吉屋前で下駄ばきで見物していた者を無礼として斬り、同家の娘も殺害し、押田屋を本陣とし、一〇〇~二〇〇〇両の献金を命じます。さらに翌日、足利藩陣屋に交渉するも拒否され、陣屋を攻撃、町にも火をつけほぼ全焼させます。
足利藩兵などに追撃され追い払われますが、同月二十一日には真鍋宿(土浦市)でも放火と金品強奪を行いました。
愿蔵は天狗党を除名されますが、その行動は天狗党に対する支持を失わせ、幕府には武力鎮圧の口実を与えることになりました。さらに、各地で天狗党の名を騙った金品強奪が起こり、人々を恐怖に陥れることになります。
さて、栃木市内に、西山謙之助の墓というものがあります。説明板によると、慶応三年(一八六七)に美濃出身の西山をはじめとする一党が市内の出流山満願寺に立てこもり、金品を要求したので「出流天狗党」と呼ばれた、とあります。愿蔵の事件から三年後のことですが、
金品要求=天狗党というイメージが植え付けられていたことを物語る事例です。