茨城の歴史点描㊸ 徳川家康の従兄弟
2023.02.07
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
今年の大河ドラマは「どうする家康」です。徳川家康が主人公となるのは、一九八三年放映の「徳川家康」(山岡荘八原作)以来四〇年ぶりですが、これを意外に思われる方も多いかも知れません。そう感じるのは、戦国時代が舞台になると、家康は必ず登場するので見慣れているからでしょう。
しかし、ほとんどが晩年の姿で、少年時代については、「おんな城主直虎」でわずかに描かれたぐらいだと思います。
ところで、その家康の従兄弟を祀った神社が本県にあることをご存じでしょうか。
それは、結城市にある聰敏神社です。祭神は初代福山藩主水野勝成で、家康の母於大の弟水野忠重の子になります。勝成の直系子孫は継嗣が途絶えたことで、いったん断絶するのですが、家康の生母の家系と勝成の功績のためでしょうか、すぐに親族である水野勝長に家名再興が認められます。そして、元禄十三年(一七〇〇)に結城に封じられ、子孫が幕末まで藩主をつとめました。
神社は、結城藩七代藩主水野勝愛(かつざね)が、文化十三年(一八一六)に、福山の聰敏神社から勧請したもので、結城城址の一角に鎮座しています。「聰敏」とは勝成を称えた「聰明」「俊敏」の二語に由来します。
勝成は、永禄七年(一五六四)に、三河国刈谷(愛知県刈谷市)に生まれ(異説もあります)、慶安四年(一六五一)で数え八八歳で没していますが、その生涯はまさに波乱万丈という言葉がふさわしいものでした。
一六歳で初陣を果たしたものの、父の家臣を斬ったことで勘当され、その後は諸国を流浪し、豊臣秀吉、佐々成政、小西行長に仕え、最終的には家康の仲介で父に許され家康に仕えています。その戦場での軍功は目覚ましく「鬼日向」(「日向」とは勝成の官名「日向守」によります)と称されました。江戸時代に入ると福山一〇万石に封じられ、西国の外様大名と瀬戸内の押さえとして重要な任務を担いました隠居後も七五歳の時、老年にもかかわらず、将軍家光から請われて「島原の乱」鎮圧に参加しています。
今回の大河ドラマに、勝成が登場するかは分かりませんが、伯母である於大と伯父水野信元は、ドラマ序盤の展開に大きな役割が与えられそうです。また、勝成自身を「大河ドラマの主人公」にという運動も、刈谷、福山両市が中心となって展開しています。