茨城の歴史点描㊶ 徳川光圀プロデュースの鎌倉案内書
2022.12.09
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
大河ドラマもいよいよ大詰めとなってきました。鎌倉市もコロナで減った観光客が、ドラマの人気も相まってかなり戻ってきているようです。
今でこそ「古都」として有数の観光地となっている鎌倉ですが、鎌倉幕府が滅亡してから三四〇年余りをへた江戸時代初頭には、鶴岡八幡宮や建長寺、円覚寺などの古刹があるとはいえ、相模の一寒村にすぎませんでした。八幡宮の門前にわずかの家並があるだけで、由比ガ浜から続く参道の両側には一面に水田が広がっている、というのどかな景観でした。
この一寒村を再評価し、世に知らしめたといえるのは、「水戸黄門」で知られる徳川光圀です。
テレビドラマのように、光圀が全国を漫遊したのはフィクションの世界ですが、唯一の「漫遊」といえる旅が一度だけありました。
それは延宝二年(一六七四)四月二十二日、帰国していた光圀は江戸に戻る際、水戸を発し、長岡(茨城町)から水戸街道を外れ、小川、玉造、潮来など水戸藩領地をへて、途中、狩猟に興じたり、成田山新勝寺等に参詣など「漫遊」しながら、上総勝山まで下り、上総湊から金沢(横浜市)まで渡海、さらに南下して五月二日には鎌倉にはいっています。
鎌倉には八日まで滞在して、精力的に旧跡を見学しました。このときの記録を家臣にまとめさせたのが『鎌倉日記』です。
この書は、単純な見学記というより、鎌倉の周辺も含めた名所紹介になっている点に特色があり、その数は一七八か所にのぼります。
のちに光圀は家臣に命じて、これをさらに増補して『新編鎌倉志』(八巻十二冊)をまとめさせ刊行します。これは記事だけでなく絵も挿入された本格的な鎌倉ガイドブックとも言えるもので、いわば江戸時代の観光案内のさきがけとも評されています。
さて、『新編鎌倉志』では、鶴岡八幡宮境内の見どころなどが詳細に解説されていますが、「石階」(石段のこと)の項の最後に「西の方に銀杏樹あり(中略)相伝ふ。公暁、此銀杏樹の下女服を著て隠れ居て。実朝を殺すとなり」とあります。
実はこの記述が「公暁が隠れていた銀杏」という伝承を広く知らしめることになりました。ただ、「女装して隠れていた」という話は広まらなかったようですね。
なお、かつて石段の側にそびえていた、大銀杏は一二年前の三月に強風のため倒壊してしまいましたが、現在はひこばえが成長しています。