茨城の歴史点描㊴ 土浦の花火
2022.11.08
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
花火といえば、夏の風物詩というイメージがありますが、毎年秋に開催される「土浦の花火大会」、正式には「第91回土浦全国花火競技大会」が、11月5日に三年ぶりに開催されました。
近年は各所で夏を中心に花火大会が開催されますが、この大会は、秋田県大仙市(大曲)、新潟県長岡市の大会とともに全国三大花火大会、あるいは大仙市、三重県伊勢市と並ぶ全国三大競技花火大会の一つに数え上げられる大会です。
シーズン最後の競技大会ということ、また、全国の代表的な煙火会社が、約二時間半にわたり、来年の受注に向けた最新作を披露することもあり、例年多くの見物客で賑わいます。
競技は、「スターマイン」「十号玉」「創造花火」の三部門で行われ、部門ごとに優勝、準優勝、特等、一等、特別賞が授与されます。さらに、平成十二年からは、総合成績優勝として内閣総理大臣賞が創設されています。
第一回大会は、大正十四年(一九二五)九月五日、六日に霞ヶ浦湖畔で行われました。主催は、市内の神龍寺住職秋元梅峯(一八八二~一九三四)が組織した、大日本仏教護国団です。目的として、三年前に阿見村に開設された「霞ヶ浦海軍航空隊」の殉職者の慰霊とともに土浦町の商業活性化などをあげています。
そのため第一回大会会場には殉職者の祭壇が設けられ、航空隊からも代表五名が参拝しました。その中には当時「副長」であった山本五十六大佐も含まれています。
第二次世界大戦中は中断を余儀なくされましたが、昭和二十一年九月二十九日には早くも再開されました。その後、会場は桜川沿いに変わりましたが、現在も土浦市にとっては春の「霞ヶ浦マラソン」と並ぶ一大イベントとなっています。
ところで、全国的な競技花火大会が、県内で最初に開催されたのは笠間町でした。大正六年(一九一七)九月十五、十六の両日のことです。笠間稲荷神社宮司の塙嘉一郎(一八七五~一九四〇)が会長として「常陸笠間稲荷神社全国煙火競技会協賛会」を組織して、最初は費用の七割以上を同神社が負担し、事務も取り仕切っていたようです。
この大会は、昭和十二年(一九三七)まで、途中二回の中止や規模の縮小をはさみながら計十二回開催されました。日程が、例年九月の上中旬であったため、後発の土浦の大会は、十月に開催するようになった、といわれています。