茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㊳ 格さんの北条親子評

2022.10.22

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」では、鎌倉幕府初代執権北条時政が追放され、息子の義時が執権となりました。ドラマをご覧の方はさまざまな感想をもたれたと思いますが、江戸時代の人々は彼らをどのようにみていたのでしょうか。今回は、「水戸黄門」の格さんのモデルとなった安積澹泊の評価を紹介してみようと思います。
 安積(あさか)澹泊(名は「覚」)は水戸藩出身で、徳川光圀が始めた『大日本史』編さんの中心となった学者の一人です。のちにその名をもじって「渥美格之進」として、テレビドラマ「水戸黄門」の「格さん」とされました。  さて、『大日本史』は、神武天皇から後小松天皇(一四三三年崩御)までの時代を対象として、一〇五人の天皇の事蹟(本紀)と、その間のさまざまな人物二四一五人の伝記(列伝)を中心として、テーマ別の歴史(志)と官職の職員録(表)をつけたものです。
 「本紀」と「列伝」には、人物評がついていました。これは光圀の意をうけて編さん機関である「彰考館」の総裁をつとめた安積が執筆したものです。
 それでは、安積が書いた人物評(論賛)では、北条時政、義時はどう評されているのでしょうか。原文は漢文で書かれ、かつ中国の古典が比喩としてふんだんに引用されているので、かなり難しいのでさわりの部分を意訳してお伝えします。
 北条時政については、「裏で悪行をし、謀を好む性格」といい、比企能員を滅ぼすことにより権力を握ったものの「後妻の言に惑わされて」晩節を汚したことは、「本来、歳をとれば智力も増すはずだが、体力が衰え智力もボケてしまった」例と評されています。
 対して、義時は「英邁」と評されています。ただ、問題がありました。それは後鳥羽上皇を中心とした朝廷と幕府の戦い(承久の乱)を主導したことです。この戦いでは、勝利した幕府が、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を流罪にしましたが、『大日本史』の立場からいえば、幕府の実質的な指導者である義時は、朝廷に対する反逆者とされてもおかしくありません。事実、平将門や源義仲は、反逆者に認定されています。  しかし、この件はそもそも上皇側に原因があり、それに対応した義時を反逆者とみるべきではなく、むしろ私心なく、その子孫も代々節倹を守っていると肯定的にみています。そして、「天下に功績がないというべきではない」と回りくどい表現ながら高い評価をしています。 

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