茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㊲ 三大俳人と茨城

2022.10.18

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 今、県立歴史館では、十月三十日まで「茨城の俳諧―芭蕉・蕪村・一茶が訪れた茨城」と題した展示を開催しています。
 江戸時代の代表的な俳人として有名な、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶ですが、この三人は本県とも重要な関係があるということをご存じでしょうか。今回はその一端をご紹介しましょう。
 まずは松尾芭蕉(一六四四~九四)をご紹介しましょう。伊賀(三重県伊賀市)に生まれて、江戸深川の芭蕉菴を中心に活動しました。ちょうど徳川光圀が水戸藩主のころになります。
 芭蕉は、貞享四年(一六八七)八月、門人の曾良と宗波とともに船で鹿島を訪れ、鹿島神宮に参詣し、根本寺では江戸で親交があった仏頂和尚に面会、さらに潮来の本間自準を訪問しました。このときの紀行文が『鹿島紀行』としてまとめられています。
 ちょうど中秋の名月のころにあたり、根本寺で詠んだという「寺に寝て まこと顔なる 月見かな」の句碑が同寺の本堂前にあります。
 つぎに小林一茶(一七六三~一八二七)です。一茶は信濃柏原(長野県信濃町)の農家の出身で十五歳のとき江戸に奉公にでて、以後江戸で活動します。やがて、俳諧師として地域の文化人との交流を始めますが、利根川流域も頻繁に訪れた地域の一つでした。布川(利根町)では、金毘羅神社境内での奉納相撲を人々が木に登って観戦している様子を詠んだ「べったりと 人のなる木や 宮角力」(同神社境内に句碑あり)などという句を残しています。また、守谷では、年末を過ごした西林寺で詠んだ「行くとしや 空の名残りを 守谷まで」(同時境内に句碑あり)が有名です。
 最後に紹介する与謝蕪村(一七一六~八三)は大坂の生まれですが、芭蕉と一茶が「訪問者」として本県に関わったのに対し、二十七歳のころから約一〇年間結城に滞在し、結城・下館地域を拠点として創作活動を行っていた点で、郷土により深いかかわりを残しています。結城では豪商で同門の俳人砂岡雁宕(いさおかがんとう)宅や弘経寺などで生活していました。
 蕪村は、南画を描く「画人」としても高い評価を得ており、のちに「十宜図」(国宝指定)などの傑作を生んでいきますが、その基礎は県西の地で培われたともいえそうです。
 ここでの代表作をあげるとするならば、やはり筑波山を詠んだ「行く春や むらさきさむる 筑波山」(結城城址に句碑あり)でしょうか。

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