茨城の歴史点描㉞ 結城朝光登場!
2022.08.11
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、八田知家に続き、本県ゆかりの人物が登場しました。結城朝光です。
朝光は、八田知家の姉寒河尼(小山政光妻。頼朝の乳母の一人)の子です。頼朝が石橋山の戦いで敗れ、安房から反撃に向かう途中、母とともに対面します。十四歳の少年に対し、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ、「朝」の字を与えて宗朝(のちに朝光と改名)と名乗らせました。
その後、御家人の一人として鎌倉で活動し、結城郡の地頭職を与えられ、地名にちなんで「結城」の名字を名乗るようになります。
ドラマでは頼朝死後の登場でしたが、実際は奥州藤原氏の討伐でも功績をあげており、二度の頼朝上洛にも同行しています。
建久六年(一一九五)の二度目の上洛中、頼朝は自らの援助で復興した、奈良の東大寺(かつて平重衡の焼きうちにより焼失)大仏殿の落慶法要に出席しました。
この時のことです。法要前に頼朝が着座した際に、見物に来た衆徒(寺の僧侶など)たちが門内に入ろうとして警護の梶原景時らとトラブルを起こしました。景時に代え、頼朝は朝光に騒ぎを鎮めることを命じました。
朝光は景時の高圧的な態度と異なり、衆徒の前で跪き頼朝の使者であることを告げ、条理を尽くした説明をしたところ、彼らは一様に感心し、朝光を「容貌美好、口弁分明」と褒めたたえたといいます。このことから朝光が、イケメンで話もうまい人物という印象でとらえられていたことがわかります。
さて、それから四年後、頼朝が世を去り、十三人による合議が始まったころ、事件が起こりました。発端は朝光が「忠臣は二君に仕えずというが、自分は頼朝の死に際して出家しなかったことを後悔している」と発言したことです。これを聞いた梶原景時が将軍頼家に「朝光に謀反の疑いあり」と告げた、という情報を阿波局(阿野全成妻・政子妹)から聞いた朝光は三浦義村に相談、それが御家人六五人の景時弾劾の連判状に発展、景時は鎌倉を追放されました。
その後、冤罪が晴れた朝光は、幕府の主導権を握った北条義時のもと、比企能員や畠山重忠、和田義盛ら有力御家人の討伐に参加するほか、承久三年(一二二一)に後鳥羽上皇が企てた倒幕の策動に際しては、甲斐から美濃へ向かう軍の将として五万余の兵を率いて活躍しました。
弓矢だけでなく和歌にも通じた教養人であった朝光は建長六年(一二五四)、八七歳で天寿を全うしました。