茨城の歴史点描㉝ うな丼の起源
2022.08.04
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
「土用の丑」といえば鰻ですね。「うな丼」と「うな重」はご飯の上にウナギをのせてたれをかける、という調理法は共通で、要は入れ物の違いだけ、というのが通説のようです。
この調理法を発明したのは、現在の常陸太田市亀作出身といわれる大久保今助という人物といわれています。今助は農民の子でしたが、少年時代に江戸に出て、商人として身を立て、ついには水戸藩から扶持を得る身分にまで出世しました。九代藩主擁立運動では、斉昭を擁立しようとする改革派と対立しています。
また、江戸では芝居小屋のオーナーとして、芝居が大入りとなると役者はもとより木戸番にまで祝儀をだすという気風の良さで「飛ぶ鳥も落ちるほどの勢い」と評されています。
さて、今助は鰻が好物で、鰻屋から取り寄せて食べていました。ただ、出前中に鰻が冷めてしまうのが難点です。そこで、今助は「それなら暖かいご飯の上に乗せ蓋をすれば冷めにくいだろう」と発案します。これが「いたって風味よろし」と評判となり鰻の一般的な食べ方として広がったというものです。
これは『俗事百工起源』という幕末の書物に記された説ですが、牛久沼のほとりにも別の説が伝えられています。こちらも今助が発案者であることは共通しているのですが、つぎのような話です。
今助が牛久沼の渡し船を待ちながら、名物の鰻を注文したところ、船出に間に合わなくなり、あわてて鰻をご飯の上に乗せて食べたところ、これが美味だったので、以後そうするようになった、というものです。
いずれにしても大久保今助という人物が「うな丼」の発明者であることは変わらないようです。
ところで牛久沼の渡し船ですが、当時の水戸街道は沼から大きく迂回したルートを通っていました。そのため、牛久沼をショートカットして直線的に船で渡るルート(現在の国道六号線のルートにあたると思われます。当時は現在の常磐線付近まで沼地でした)が繁盛し、待合の茶屋では沼で獲れた鰻を供していたようです。現在も往時ほどではないですが、数軒の鰻屋があります。 なお、国道六号線(陸前浜街道)は、明治十七年に女化原(牛久市)で開催が予定されていた陸軍大演習(天皇も臨席)に備え地元の有力者が発起人となり、沼を埋め立て二年で完成させたものです。この道に沿って常磐線が明治二十九年に開通しますが、新道のおかげで路盤工事が容易であったといわれています。