茨城の歴史点描

茨城の歴史点描㉗ 水戸城下の端午の節句

2022.05.10

茨城の歴史点描

茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博

 旧暦の五月は、新暦では年によって変動がありますが、五月末から七月初めごろにあたります。全国的に梅雨入りとなり、合間の晴れ間を「五月晴れ」と称しています。
 五月五日は「端午の節句」になるわけですが、旧暦時代のこの日は、現在のようにゴールデンウイークの青空に舞う鯉のぼりというイメージとは本来異なるものでした。
 江戸時代中期の水戸城下の様子をみてみましょう。
 まず、藩士たちは五節句の慣例により、奉賀のために登城します。家では菖蒲を切って酒に浸して飲み、蓬と菖蒲を家屋のひさしに差します。ここでいう「菖蒲」はアヤメ科の「花菖蒲」ではなく、ショウブ科の植物です。葉が似ているので混同されますが、まったく別種です。菖蒲は薬草であり、さらに邪気をはらったり、火災を防ぐと信じられていましたが、これは中国伝来の思想です。わが国では武士が台頭するようになってからは「尚武」に通じるとして、ことさら尊重されるようになりました。
 さて、水戸城下の話に戻りましょう。
 男子がいる家では木でつくった槍や紙の旗を飾り、粽餅をついて親族に贈りますが、貧しい家では柏餅だったといいます。返礼として槍、旗などを受け取ります。
 節句の源流は中国ですが、端午の節句に粽を食べる習慣はここから来ています。これに対して、柏餅は江戸中期ごろに江戸周辺で始まり、関東地域、とくに庶民の間に広まっていったとされています。
 柏が使われたのは、これが広葉樹でありながら、冬を越し新芽がでるまで落葉しないところから、「神が宿る木」また「代が途切れない」縁起がよい木とされていたことによるとされています。男系重視の江戸時代ならではということでしょうか。
 さて、この時期、江戸の町では幟(のぼり)のほか、室内に紙製の鯉をたてることが行われていました。ところが、水戸ではこうした風習はなかったとみえ、さらに飾り兜や、人形は厳禁とされ、幟も布ではなく紙製に限り、本数については武家と農民には制限がなかったのですが、町人には後継ぎとなる嫡子には三本、次男以下は二本と定められていました。
 総じて、水戸藩では常日頃から質素倹約を求められていましたが、このようなところにもそれは及んでいたわけです。

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