茨城の歴史点描㉕ 源頼朝の佐竹攻め
2022.04.09
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
私の今年の大河ドラマの関心事の一つに、頼朝の佐竹攻めをどのように描くか、ということがありました。
結果的にはかなり簡略化され、また脚色された形になっていましたが、ドラマですから当然でしょう。ここでは、鎌倉幕府が編さんした歴史書『吾妻鏡』によって、一連の動きをふりかえってみたいと思います。
治承四年(一一八〇)十一月四日、意に従わない佐竹氏討伐のために、頼朝は常陸国府(石岡市)に到着、ここで指揮をとります。佐竹側は当主隆義が平氏の家人として京におり、子の秀義が守っていました。
頼朝はまず、佐竹方の考えを探るため、佐竹義政(佐竹氏初代昌義の子。孫という説もあります)に上総広常を派遣したところ、すぐに参上するという返事。ところが義政が大谷橋(小美玉市大谷)までやってきた時、頼朝はその家来たちを遠ざけ、義政一人を橋の中央に招き、素早く広常に殺させました。佐竹氏に対する強硬姿勢をみせたのでしょう。
ちなみに、この橋は現在の石岡小美玉スマートICのそばにあり、かたわらには「佐竹義政の首塚」という小祠があります。
さて、義政の甥(弟という説もあります)である秀義は、金砂城(常陸太田市)に立てこもり抵抗します。この城は西金砂山の頂上に造られた山城で、正面は断崖絶壁となっており、頼朝軍が矢を放っても城まで届かず、代わりに城からは矢とか石が降りそそいでくるというありさまでした。
戦況は膠着状態となりましたが、広常の提案で佐竹秀義の叔父義季を懐柔することにします。広常と会った義季は説得に応じ、頼朝軍はその案内で金砂城の背後に回り鬨の声をあげると、予期せぬ事態に城内の秀義軍は慌てふためき逃亡したといいます。
それから時は流れて文治五年(一一八九)、秀義は頼朝の奥州藤原氏攻めに加わり武功をあげ、許されて「御家人(頼朝の家来)」となります。ただ、佐竹氏が往時の勢力を回復するのは室町時代以降になります。 結果的に佐竹氏は、江戸時代も常陸から離れたものの、大名として生き延びて明治維新を迎えます。平安時代末にすでに関東で無視できない大豪族となり、その後およそ八〇〇年という長きにわたり一定の勢力を保持し続けた氏族は、ほかに例をみないものです。