茨城の歴史点描㉓ 武田氏と常陸国
2022.03.01
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、甲斐の武田信義が登場しました。平氏討伐の旗揚げに協力を要請されたシーンでしたが、この子孫が戦国武将として有名な武田信玄となります。
それでは「先祖は?」というと、常陸国の出身なのです。信義の祖父義清と父清光親子はもともと常陸国吉田郡武田郷(ひたちなか市武田)に居住していました。ところが、罪を得て甲斐に流されて現地で勢力を伸張させたのです。
一方、義清の兄義業は、佐竹氏として常陸国で勢力を伸ばしていきます。つまり武田も佐竹と同じ源義光(寛徳二年・一〇四五~大治二年・一一二七)の子孫ということになります。ちなみに義光の兄義家の子孫が源頼朝や足利尊氏に連なります。
ところで、甲斐ではなく常陸国で勢力を広げた武田氏があったことをご存じでしょうか。
室町時代の中頃、甲斐の守護武田信満の弟信久が常陸国武井郷(行方市武田)に移り土着しました。場所こそ違いますが祖先の故郷に戻ってきたのです。
以後、神明城(行方市内宿)を拠点として戦国の乱世に乗じ、確実に周辺地域に勢力を伸ばしていきます。とくに八代目の通信は天文二年(一五三三)に、より規模の大きい木崎城を築きました。ちなみに城跡は、建設中の東関東自動車道北浦インターチェンジに近い場所です(東に直線で一・五キロメートル)。
しかし、天正十九年(一五九一)、九代信房は、周辺の領主たちと共に佐竹氏によって殺害され二〇〇余りの常陸(北浦)武田氏の歴史は閉じてしまいました。
これより少し前の天正十年(一五八二)、信玄の子勝頼が織田信長に滅ぼされたことで、甲斐武田氏の嫡流も途絶えてしまいました。徳川家康はその名跡を自らの五男に継がせ「武田信吉」と名乗らせます。そして、佐竹氏が去った水戸城の主とし、武田一族の穴山梅雪の旧臣たちを付けています。信吉は水戸城主一年で病没してしまいますが、家臣たちはその後の水戸藩の基礎づくりに活躍しました。
そのほか水戸藩に仕えた武田氏があります。第一に思い浮かぶのは天狗党の首領として有名な武田耕雲斎ですが、実は本来は跡部氏でした。耕雲斎が系譜上武田一族に連なるとして斉昭に願い出て復姓したのですが、本当に武田に繋がるか否かははっきりしません。 これとは別に信玄の弟信友の子孫が光圀時代に藩士となり、幕末まで存続しました。