茨城の歴史点描㉒ 天狗党、敦賀に散る!
2022.02.19
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
元治二年(一八六五)二月四日から二十三日にかけて、敦賀では元水戸藩家老武田耕雲斎をはじめとする、天狗党のメンバー三五二人の処刑が実行されました。
武田を首領とする八〇〇人余りの天狗党員が一橋慶喜と加賀藩に降伏したのは前年の十八日でした。対応を任された加賀藩では彼らを「志士」として扱い、三つの寺にわけて収容していました。正月には鏡餅、ときには酒もふるまわれることがあったといいます。
一月二十九日、天狗党は幕府軍に引き渡されると、状況は一変、福井、彦根、小浜三藩は彼らを一六棟の鰊肥土蔵に閉じ込めました。脱走防止のため、明り取りの窓までふさがれ、大小便は蔵の中央に置かれた桶を使い、食事は握り飯を一日に二回というありさまでした。
今の暦では二月下旬にあたり、敦賀では雪はもとより吹きすさぶ北風も激しいものがあったことでしょう。
そもそも天狗党が藤田東湖の息子小四郎が中心となって、筑波山に挙兵したのは前年の三月二十五日のことでした。目的は、このころ幕府が朝廷に約束した攘夷実行の一つとして、すでに開港していた横浜港を閉鎖することでした。いわば、朝廷、幕府の方針に沿ったものだったのです。
ところが、これに対して異議を申し立てたのは、水戸藩弘道館の諸生(学生)たちでした。
諸生たちは大洗の願入寺に集会をもち、天狗党の挙兵は、亡き前藩主斉昭の遺志に背くものとして批判します。斉昭がかつて藩主を差し置いて、直接、朝廷や幕府に従うことを戒めていたことによります。一方、天狗党は攘夷実行こそが斉昭の遺志として挙兵したのですから、斉昭亡き後では抑えることができる人物はいませんでした。
そこにかねてから天狗党の行動に批判的であった門閥派といわれる重臣層が加わり、複雑な経緯をたどることになったのです。
ところで、敦賀で降伏した天狗党員のうち、水戸藩関係者はかなり身分の低い者まで加えても一割程度にすぎず、残りのほとんどは農民でした。とくに行方郡、茨城郡、久慈郡などが多く、そのほか鹿島郡や下総、下野や上野などの隣接地域、遠くは出羽、伊豆、越後など広い範囲に及んでいました。 敦賀に向かう前に、戦死、あるいは降伏した者も多かったことを考えると、世に「天狗党の乱」などと称される一連の事件は、単に水戸藩内だけのことではなく、関東一円の農民をも巻き込んだ大きな事件だったのです。