茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭⑩
2021.08.28
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
「偕楽園の動線と視線移動」
庭園は、眺める位置によって景色の表情が変わるものです。この点、偕楽園はどのような考えのもとに設計されたものなのでしょうか。動線と視線の移動という観点で考えてみましょう。
斉昭が景観設計の中心に設定した好文亭。その展望台「楽寿楼」に行くには、昔の笠間方面への街道沿いにある「好文亭表門」を入ります。この門が正門なので、ここからの動線が大事になります。
好文亭には「表門」を入ってすぐに左折して直進するのが最短コースです。ところが、入園者は「表門」の正面にある「一ノ木戸」に向かい、あえて遠回りして好文亭に向かうことになります。こう考えると「表門」自体の向きもそのような動線を前提として、設定されていることに注目したいところです。ここを過ぎると、ゆるやかな坂を下っていきますが、おのずと視線は下方に向けられます。
すでにご紹介したように、「一ノ木戸」からの下り坂周辺が、現在と大きく異なり、創建当時は現在のような杉や竹ではなく梅の林であったとすると、俯瞰する視野は遮られず、そのなかを歩きながら、少し視線を上げると坂がゆるやかにカーブした先に「玉龍泉」が遠望される、というのが斉昭の意図であったと考えられます。
そして、吐玉泉を過ぎるあたりから、今度は坂を登っていきますが、このあたりは「偕楽園図」では五葉松林になっており、現在より明るく広がった空間です。しかし、視線の行く手には杉林があり、好文亭の存在を隠し、梅林の広がりも見えません。
そして、杉林を越え好文亭に至り楽寿楼に登ると一気に視界が広がる、という仕掛けです。
しかも視界の先にも高低差があるため、縦横両方向に広がった極めて立体的な変化に富んだ風景が展開するようになっています。まさに「偕楽園記」に「城下南側の優れた景色はすべてここに集約される」と表現されている景色です。
偕楽園の神髄は、この表門からの動線に沿った視線移動による視界の変化である、と言っても過言ではないでしょう。
現在、この動線は、杉林や竹林の「陰」と梅林の「陽」の世界の対比で説明されているところですが、この「陰陽」については「偕楽園図」や他の資料を見る限り、斉昭にそうした発想はなく、現況にあわせて後年に付会されたものと考えるべきでしょう。