茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭⑨
2021.08.19
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
「寒水石」にこめたこだわり
前回、偕楽園の「吐玉泉」の井筒に、「寒水石」が使われていることを書きました。なぜ敢えて、水に溶けやすい素材を斉昭は用いたのでしょうか。
斉昭は、碑をはじめさまざまな石造物を遺しています。そのなかで「寒水石」で造られたものを挙げてみましょう。
①弘道館記碑(水戸市) ②山寺晩鐘碑(常陸太田市) ③水門帰帆碑(ひたちなか市) ④嚴船夕照碑(大洗町) ⑤向岡碑(東京都文京区) ⑥雪見灯籠(京都市仙洞御所内)
①は、以前にもとりあげた弘道館の中心「八卦堂」内に設置されたもので、堂の扉を開くと、薄暗い中にも白く浮かび上がってきます。
②~④は「水戸八景碑」ですが、いずれも高台で遠方からも視認できそうな場所に建てられています(現況は木が繁茂して見にくい場所もありますが)。
⑤は、斉昭は藩主就任前に住んでいた水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部・工学部)にあるもので、現在は移動してしまいましたが、かつては不忍池を見渡せる場所に建てられていたようです。
⑥は、斉昭が天保六年(一八三五)に、光格上皇に斉昭が寄進したもので、高さが二メートル以上ある大きなもので庭園内でも異彩を放っています。
こうしてみると、「目立つ」必要がある場面に用いられている、と言えるのではないでしょうか。
「偕楽園図」をみると「吐玉泉」の両脇には太郎杉、次郎杉という樹齢八百年を超えるといわれる杉の大木がそびえています。現在、次郎杉は失われていますが、当初はこの両杉の陰で薄暗かった場所であったために、斉昭はあえて「寒水石」を用いたと思われます。
もう一つ、斉昭は「寒水石」で自らの神主(しんしゅ・仏教でいう位牌にあたるもの)を製作し、生前家臣に、百年後に好文亭に安置して、折々音楽などをその前で奏でて欲しいという依頼をしていました。高さ三〇センチ程度のもので、背面には「国民と 偕に楽しむ こゝろかな 今を昔に 忍ぶ世までも」という自作の和歌を刻んでいます。
残念ながらこの「神主」は現存しませんが、これも平素は箱に収納されていて、開扉すると薄暗い中で白く輝く、という点は、前にあげた石碑などと共通する要素があるようです。いずれにせよ、「寒水石」の使い方は、薄暗い中で「目立つ」という演出効果にこだわった事例としてあげることができます。