茨城の歴史点描 時代の変革者。徳川斉昭③
2021.05.14
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
一般的に藩という組織のトップに求められる資質は、江戸時代の前半と後半では大きく変わったといわれます。
前半では、日常的な政務は家老らの幹部が合議、分担して処理し、とくに重要な事項のみ藩主の裁決を請うか、藩主を交えた御前会議で決定するという形が多く、藩主が幼少などの時は合議だけで進めていきます。
ところが、後半では経済が停滞したこともあって、藩主が積極的に家臣へ諮問、あるいは合議結果を決裁、時には再検討を求める場合が多くなっていくのです。藩が抱える問題が大きければ大きいほど、誰をトップにするかは藩の命運を左右することになりました。
さて、水戸藩。八代藩主斉脩は、病弱で子ができないばかりか、政務への関心が薄く、せっかく家臣が意見書を提出してもろくに読みもしませんでした。
そして、文政七年(一八二四)を迎えます。この年の五月、領内の大津浜(現・北茨城市)に十二人のイギリス捕鯨船員が突然上陸する事件が起きました。取り調べた藩と幕府は、食料などの調達が理由であると判断、彼らを放免します。
これに危機感を抱いたのが、聴取にあたった会沢正志斎です。会沢は、長文の意見書をまとめ斉脩に提出しました。これがのちに幕末志士の必読書といわれる『新論』ですが、斉脩はこれを秘すように命じます。
こうした態度は、藩内有志に「英明な藩主」のもとで改革を実施しなければならない、という機運を高めていきました。いよいよ斉昭の出番です。