茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭②
2021.04.29
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
後継者問題は、組織の将来を決める上で、今も昔も最も重要といえましょう。江戸時代の大名の場合、後継者なく当主が亡くなってしまうと「御家断絶」という憂き目をみることになり数百人、時には数千人以上の家臣、家族が路頭に迷うことになりました。
さすがに江戸時代後半になると、規定は緩やかになりましたが、藩主になるとまずは後継者の確保が最優先課題であったことに変わりはありません。
斉昭の父七代水戸藩主治紀は、四人の息子をもっていましたが、後継者となった長男(八代藩主斉脩)が病弱であったことが心配の種でした。そこで三人の弟のうち一人は他家へ養子に出すことをせずに、江戸屋敷内に一室を与えて養っておき、長男の万一に備えました。これがのちの斉昭です。
結果的に父の懸念通り、兄は跡継ぎをもうけないままに病没、斉昭が藩主となりますが、このときすでに三〇歳。ようやく一家の主となり、結婚もすることができました。
しかし、藩主就任はすんなりとはいきませんでした。これが火種となって、のちに藩をゆるがす事態に発展することになりますが、この話は後ほど。
さて、後継者のスペアを設定しておくこと、これは斉昭自身も父を見習って実践しています。長男鶴千代麿(のちの十代藩主慶篤)の万一に備えて、養子にも出さずに、とくに目をかけて育てたのが、七男の七郎麿、すなわちのちの慶喜であったのです。
やがて慶喜は、将軍家の後継者候補となり、その人生が大きく動いていくことになります。