茨城の歴史点描㉙ 八田知家登場!
2022.06.18
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に八田知家が登場しました。
と、いっても「誰?」という読者がほとんどと思います。知家は常陸国の御家人たちを指揮する権限を持つ「守護」に任じられ、子孫は小田城(つくば市小田)の主(小田氏)として、戦国時代末まで県南地域に勢力を保ちました。ドラマの登場人物としては佐竹氏に続く本県ゆかりの人物です。
知家は下野国(栃木県)の豪族宇都宮宗綱の四男に生まれました(兄朝綱の娘と源頼朝の父義朝との間に生まれたという異説もあります)。姉は頼朝の乳母もつとめたという寒河尼です。ちなみに兄朝綱の孫頼綱は、幕府御家人であると同時に歌人としても知られ、京都小倉山にある自らの山荘の襖に張る色紙を歌人藤原定家に依頼、これが「小倉百人一首」の起源となります。
さて、知家に戻りましょう。生まれは康治元年(一一四二)といわれています。頼朝の挙兵に参加、茂木(栃木県茂木町)の地頭職(公家などが所有する荘園の管理者)を安堵され、平家追討では源範頼が率いる軍に従い功績を上げます。
ところが、このとき知家などの御家人たちが、許しを得ずに朝廷から勝手に官位を授与されたとして、怒った頼朝は関東への帰還を許しませんでした。幕府編さんの歴史書『吾妻鑑』では、「九州に下る途中に京都で任官することは、駄馬が道草を食っているもの」と酷評されています。
その後許され、文治五年(一一八九)の奥州藤原氏との合戦に際して、小栗重成、多気義幹、鹿島頼幹、真壁長幹などの常陸国の御家人を率いています。これは頼朝から「常陸国守護職」に任じられたことを意味しています。
建久四年(一一九三)、知家は常総地域に勢力を保っていた、多気義幹や下妻広幹を謀殺して勢力を拡大します。 頼朝の死後、幕府の体制は、二代将軍頼家の親裁を停止、御家人13人の合議制に移行しますが、知家はその一人として幕政にも参加することになるのです。
その後、頼家と弟実朝(のちの三代将軍)が対立、頼家は実朝を支持する叔父阿野全成(頼朝弟、妻は北条政子妹)を捕らえ、常陸に配流、知家に命じて殺害させます。 源家一族や御家人たちの対立が絶えない幕府のなかで、巧みに自らの勢力を広げ、幕府内でも重んじられた知家。これからドラマのなかでどのように描かれていくのか注目したいところです。