茨城の歴史点描㉘ 県内を通過した仙台藩の参勤交代
2022.05.19
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
旧暦三月から五月にかけては、御三家や外様大名の参勤交代がピークとなる時期です。
江戸時代の大名は、原則として一年ごとに江戸と国元を往復することになっていました。これは元来豊臣秀吉が政権を握っていたころ、徳川家をはじめ島津家や毛利家、伊達家などの有力大名が、あいさつのためにそれぞれの国元から大坂城などへ向かい、秀吉に謁見して忠誠を誓ったことが始まりとされています。参勤に来ないで国元に留まっていることは「謀反」の疑いをかけられかねませんでした。
徳川家が政権をとると、行き先は江戸に変わり、やがて幕府の職員である譜代大名も国元に戻り直接領地の政務をみることになっていきます。
さて、大名は行列を編成して往復しましたが、とくに外様の大大名などは大掛かりとなり、たとえば仙台藩主伊達家は江戸時代前半にはおよそ三五〇〇人であったといいます。この行列の荷物輸送には街道付近の農民が動員されました。そのため、幕府はできるだけ農繁期を避けて参勤するように、大名ごとに時期を定めています。
ところで、仙台藩は基本的には奥州道中を往復していましたが、三回ほど茨城県域を通過しています。これは県南に一万石の仙台藩飛地領(現在の龍ケ崎市、阿見町の一部)があったためです。藩主とコースを紹介しましょう。
①伊達吉村 享保十三年(一七二八)五月二十五日 江戸―布川(千葉県印西市)(泊) 二十六日 布川―龍ヶ崎(泊) 二十七日 龍ヶ崎―潮来(泊) 二十八日 潮来―洲崎―大船津―汲上―那珂湊(泊) 二十九日 那珂湊―太田―大中(常陸太田市)(泊)
ここから棚倉街道をへて郡山で奥州道中に入り、仙台には六月五日到着。
②伊達重村 安永七年(一七七八)四月二十五日 江戸―小金(千葉県松戸市)(泊) 二十六日 小金―龍ヶ崎(泊) 二十七日 龍ヶ崎―府中(石岡市)(泊) 二十八日 府中―太田(泊) 二十九日 太田―小妻(常陸太田市)(泊)
この場合も、棚倉街道から郡山に抜けて、仙台には五月五日到着。
③伊達重村 安永九年(一七三〇)五月九日 江戸―松戸(泊) 十日 松戸―木下(泊) 十一日 木下(乗船)―潮来(泊) 十二日 潮来―鹿島―夏海(大洗町)(泊) 十三日 夏海―助川(日立市)(泊) 十四日 助川―湯本(いわき市)(泊)
このときは龍ヶ崎には寄らず、鹿島神宮を参拝、そのまま沿岸部を北上し、富岡、原町、亘理に宿泊、十八日に仙台到着。