茨城の歴史点描㉔ 生かされていた井伊直弼
2022.03.18
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
大老井伊直弼が、水戸藩関係者によって暗殺された「桜田門外の変」が起きたのは、安政七年(一八六〇)三月三日のことでした。新暦では三月二十四日とされています。
この日は、桃の節句であり、幕府の記録には将軍(一四代徳川家茂)が、巳の上刻(午前九時ごろ)にお出ましになって例年の通りに儀式が挙行された旨の記載があります。
その後も大老暗殺の記事はなく、三月二十八日には新たに異動した役人たちが大老などに挨拶をしたことになっています。その後、三十日になって井伊直弼の大老職罷免と水戸藩主徳川慶篤の登城停止の処分が発せられました。その後、直弼は「病気療養」となり、将軍から見舞いの朝鮮人参が届けられ、医師も派遣されています。この間に、家督相続の手続きが進みます。そして閏三月三十日、ようやく彦根藩から直弼死去が発表されました。
三月三日に桜田門外で直弼が亡くなったことは確かです。しかし「公式」にはそれからおよそ二か月の間、生きており、病気で亡くなったことにされたのです。この裏には何があったのでしょうか?
幕府の決まりでは、大名の不慮の死に対しては「家名断絶」という厳しい処分が科せられました。譜代筆頭といわれる井伊家を断絶させるわけにはいかない、という判断があったものと思われます。また、事件によって一触即発状態となった、彦根、水戸両藩の緊張を解く必要もありました。直弼と慶篤の両方を処分した形(喧嘩両成敗)にしたのもその一つです。
事件直後、彦根藩では藩士はもとより奥女中まで薙刀隊を結成して、すぐにでも水戸藩邸に押しかけようとする状況であったといいます。さらに、襲撃した浪士は熊本藩に預けられていましたが、藩邸周辺を二、三〇人の彦根藩士がうろつき、熊本藩では浪士を取り調べのため評定所に連れていく際にも一〇人以上の警護をつけなければならない始末でした。
一方、水戸藩は、事件発生前に脱藩者の捜索、逮捕を幕府に要望していましたが、事件後は処分を求め、前藩主斉昭は藩士、領民に軽挙妄動を戒める通達を発するなど、専ら鎮静に尽くしていました。
この二か月間、公的に直弼の死が明らかにされない以上、彦根藩はもとより、水戸藩も表立った行動はとれませんでした。こうして譜代筆頭藩と御三家の衝突は回避されたのです。