茨城の歴史点描 時代の変革者・徳川斉昭⑭
2021.11.05
茨城の歴史点描
茨城県立歴史館史料学芸部 特任研究員 永井 博
「日の丸を日本の印とする」
今年はオリンピックの関係で「海の日」「山の日」「スポーツの日」が移動したため、十月の祝日がない年となりました。ちなみに現在の法(「国民の祝日に関する法律」)のもとでは、休日として「祭日(宮中祭祀などを行う日)」はありませんので、土日以外の休日の総称として「祝祭日」と表現することは誤りとなります。
さて、祝日というと、かつては家々で「日の丸」を掲揚したものですが、今はあまり見かけなくなりました。
この日の丸がわが国の国旗として、君が代とともに法制化されたのは、平成十一年のことでした。それ以前は、幕末に幕府が定めた「船印」を慣用的に国旗としていたわけです。
この船印を定めるにあたり、斉昭が大きな役割を果たしています。
幕末、各大名に大船製造が許可されると、外国船と区別するため、幕府は日本船に掲げる「日本之総印」は「中黒(白地に横に黒い線)」を提案しました。この旗に加えて「日の丸」を幕府の船に、各藩の船にはそれぞれの藩主の家紋を掲げる、ということです。
安政元年(一八五四)六月五日、老中阿部正弘は、この案を海防参与の斉昭に諮問しました。
これに対し、斉昭は、「中黒は源氏の徽章であり、これをわが国旗とし、日の丸を幕府の章とするのは体を成さない。わが家では御座船に日の丸を用いてきたが、御国の総印と定められたならば、日の丸使用を中止する」と答えています。
それでも幕府内部ではなお「日の丸は幕府の船印」「中黒が日本の総船印」という案が大勢でした。しかし、斉昭は「そのほかの事と違い今後の日本の目印となること」と譲らず、やりとりは四度に及びました。
こうした斉昭の粘りに根負けしたものか、ついに幕府の評議も「日の丸」を総船印とすることに決し、七月九日「大船製造については、外国船に紛れないように、日本の船はすべて白地に日の丸の幟を使用するように」と触れました。
その後、日章旗は明治三年(一八七〇)の『太政官布告(郵船商船規則)』により、明治政府も「日本船の目印」として認め、やがて国旗として用いられるようになりました。
斉昭の粘りがなければ、わが国の国旗は「白地の中央に黒い帯」という地味なものになっていたかもしれません。